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秋田市の歴史、観光・パワースポットを順次紹介します。


by akita-kanko-annai

駅からハイキング 面影橋

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菅原神社を後にして、しばし羽州街道を東から西さらには北西へ向かって歩みを進めていく。背後遠くには藩政時代の中心久保田城が控え、通町から鉄砲町を経て八橋の寺町を楽しむ。

すると左手に面影橋といういっけん風情のあるネーミングのバス停が目に飛び込んでくる。しかし、この橋には多くの方の悲しみの足跡が刻まれているのだ。江戸時代のこの通りは背後にはお城が控え、橋の向こうには刑場があった。つまりはそういうことである。

何らかの事情で囚われの身となった罪人が、刑場でこの世との名残を惜しむ道。そして自らの面影を川面に映して己の哀れな身の上を哀しむ橋。それがかつての面影橋の役割だったのである。

言い伝えによると、近くには弥六そばという蕎麦屋が控えており、哀れな罪人たちは、最後の食事を供されたという。この後の自らの身の行く末を思うと、その蕎麦は平らげられることはなく、残された蕎麦はのびきって頼りない姿に変わっていったのだろうか。

当時の容赦ない処刑は、秋田のキリシタンにも行われた。1614年に発せられた徳川幕府の禁教令を受けて西日本でキリシタンの迫害が本格化すると、彼らはまだ取り締まりや緩やかだった東北地方に身を潜めた。

当初佐竹氏は、キリシタンの追放などの処置でお茶を濁していたのだが、幕府からの命令は次第にエスカレートし、佐竹氏もこれを無視するわけにはいかなくなった。また領内での取り締まりが厳格化した理由として、初代藩主佐竹義宣の側室や奥女中がキリスト教に傾倒し、仏教の信心を拒んだことも指摘されている。

1624年には200人以上のキリシタンが捕らえられた。このうち半数以上は改宗するなどして刑を逃れたが、最後まで改宗を拒んだ32人は処世された。旧暦6月という暑いさなかに火あぶりの刑の処されたという。信教の自由が保障されていない時代の悲劇である。

刑場は草生津、面影橋から罪人が今生の別れを告げた川の名前は草生津川という。橋を渡る罪人には、三途の川とダブってみえたのかもしれない。このあたりは石油の埋蔵が確認されており、臭いが生じるとしてこの地名になったと言われているが、当時の臭いのもとはそれだけにはとどまらなかったであろう。

現在、面影橋近辺の草生津川の川岸は、コスモスロードに生まれ代わり、刑場跡はショッピングモールとして多くの人を集めている。八橋の油田も大方枯渇し、臭気は失せた。まわりを見わたすと動かなくなった汲み上げポンプが数台、かつての繁栄の時代の痕跡として身の置きどころのなさにとまどっている。

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by akita-kanko-annai | 2011-06-18 12:49 | 駅からハイキング