
きょうは快晴で再び真夏日に逆戻りです。外は暑いので、座学で秋田城のことを学んでいきましょう。秋田城の前身の出羽の柵(いではのき)が短期間で北進した特殊性を考えて見ます。
645年の大化の改新後、中央政府は律令国家の整備を急いで、出羽から秋田へと支配権を広げていった。これが後に秋田城が設けられる大きな理由のひとつであることは間違いない。
一方で、朝鮮半島から大陸にかけての外交問題も、国内の北方整備を急がせた大きな要因であったようだ。当時、勢力の拡張合戦に入っていた朝鮮半島では、中国の唐と新羅対高句麗・百済の対立の構図が次第に確立されてきた。
日本は、国内整備を理由に当初は知らぬ存ぜぬを決め込んでいたが、よしみを通じていた百済を援助するために、海軍を出航させたという事実が残っている。こうした朝鮮半島の緊迫化が中央政府の北進を後押しした。
さらには粛慎(みしはせ)という大陸の人間集団が、当時の東北地方北部から北海道にかけて、済んでいたのか来航したのか定かではありませんが、当時の日本の水軍と交渉をしています。
この集団は渤海国からの来航者又は使節と考えられています。そこで渤海ですが、これは高句麗滅亡後の698年に建国された満州から朝鮮半島北部に位置した国家です。この国と日本はしばらくの間交易を続け、その窓口として秋田城が重要な役割を担ったと考えられています。
8世紀にはすでに日本の外交の最先端に位置していた秋田。楽しくなってきました。
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